適当日記

日常の瑣事を書いています。

ピエール・ブルデュー著・稲賀繁美訳(1993)『話すということ』藤原書店

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現代日本社会は、階級社会化しつつあるといわれています。所得によるいわゆる格差社会なのではなく、社会に階層が出現し固定化しつつあるというわけです。階層社会では、親が所属している階層がそのまま子供が将来所属する階層になります(階層構成員の再生産)。

 この本は、階層社会における階層ごとの言語の差異と、その言語の差異がもたらす影響を扱っています。著者のブルデューは、言語の本質は社会との関わりの中にあるとします。普通、言語学では、社会とは切り離した形で、ある程度整理した形式の言語を扱います。ただ、それだと、言語の本質にせまることはできないとブルデューは言います。日本にいるといまいちピンときませんが、社会が階層によって分断されてしまえば、話し言葉や書き言葉は、支配階級が公式を定めるようになります。そうすると、この公式な言語によって社会が統制されることになります。この公式な言語(多くその国の中央の言語が基準となる)は、それが使えることによって人々に様々な利潤をもたらすことになるので、使えるようになるようになりたいと人々は願うようになります。支配階級が勝手に定めた「言語」であるにもかかわらず、人々は自らその「言語」を学ぶことを受け入れることになるわけです。

 「言語」が社会的な利潤をもたらすなんて、そんなバカな。おおげさなと思うかもしれませんが、著者の出身国フランスや、イギリスでは社会階層が日本とは比べ物にならないほど、日々の生活に厳密に組み込まれ意識されているのかもしれません。そうなると、階層によって使う「言語」が異なっており、より上級の階層の「言語」を求めるということもあるのかもしれません。その「言語」を使えるか否かで、どんな学校に入学できるのか、どんな職業に就けるのかが決まるということです。

 自分はあまり詳しくありませんが、日本でも江戸時代以前は社会階層が厳密に固定されており、それぞれの階層で用いられた日本語が異なったそうです。例えば、武家言葉・花魁言葉など。日本の社会格差がこのまま進行し、今からは想像もできないほどの階級社会になったとき、再び階層によって使う日本語が異なってくることがあるのかもしれません。話せばだいたいの職業などが分かってしまうというようなことになる。

 今よりももっと東京一極集中になり、人々はこぞって東京方言主体の「言語」を求めるようになると。標準語なんか誰でもしゃべれるじゃないかと思うかもしれませんが、今は勿論そのとおりです。でも、階層社会になれば、極端な話ではありますが人々が学ぶ・知る内容も階層ごとに変わってくるわけで、特定の人しか享受できない情報が出てきます。その情報のうちの一つが「言語」だということです。

 中身は盛りだくさんで、かなり難しい本でした。何回も途中で寝ましたが、勉強になりました(多分)。誤読していなければ良いけれど。ちゃんと理解できているかな(-_-)再度チャレンジするかもしれません。