適当日記

日常の瑣事を書いています。

方言の認識は変わる

 昨日、夏の甲子園が終わりました。わが地元大阪の高校が優勝を決めました。何試合かはテレビで見ていました。自分は試合だけでなく、監督さんのインタビューを聞くのも割と好きです。話す内容にも興味がありますが、監督さんの方言を聞くのも楽しいです(マニアックですかね?笑)。あまり方言で話さない方もいるのですが、今大会でいえば、明石商業高校の監督さんは関西の言葉で話されていました。

 さて、いまでこそ方言は地域の文化財であり、守っていくものという考えが確立していますが、かつてはそうではなかったようです。このあたりのことをちょっと調べてみましたので、少し前の方言の認識を追ってみたいと思います。

  まずは、旧文部省の見解から。

 

・1954『国語審議会標準語部会報告 第二部これからの日本語 六、話しことばについて』

 「方言とは別途に標準語的発音を普及することが望ましい。」

・1993『第十九期国語審議会 現代の国語をめぐる諸問題について』

 「共通語とともに方言も尊重することが望まれる。」

・1995『第二○期国語審議会報告 新しい時代に応じた国語政策について 方言の尊重のための方策』

 「共通語と方言の共存を図りつつ、(適切な指導がなされているところであるが、今後も、学校、家庭、地域社会がこのような認識の下に)さらに方言に親しむための工夫をすることが望ましい。」

・2004『文化審議会答申 これからの時代に求められる国語力について』

 「地域での意思疎通の円滑化と地域文化の特色の維持のためには、方言についても十分にそんちょうされることが望まれる。」

 

 旧文科省の見解としては、方言以外に標準語を身に着けさせようとする姿勢が見受けられますね。次に、新聞記事を見てみましょう。

 

・『読売新聞』(1959 7/12)

 「読売教育賞に輝く業績 テレビ教育 方言減り学力向上」

 ・『毎日新聞』(1959 10/2)

 「方言なおしにひと役 テープで「声の交換」品川区大間窪小 秋田のお友達のため」

・『毎日新聞』(1960 7/14)

 「山形で母親が標準語運動消える粗雑な「方言」二重の言葉づかいから子供を解放」

・『読売新聞』(1965 4/13)

 「レコードで正しい日本語のしつけ 児童向けに楽しく ビクターから発売 方言の矯正も付く」

 

 1950年代から60年代にかけては、新聞の記事を見る限り、方言を矯正すべきものとしてとらえられていることが分かります。方言は日本の文化そのものであるというのは、現代の目から見れば常識ですが、方言をなくすべしという恐ろしい記事が新聞に堂々と掲載されていたことになります。

 また、井上ひさしさんは次のようなことを書いています。

 

 始業式の朝、クラス全員に罰札というものが配られ、教師が「これからは学校内で汚い米沢弁をつかってはいけない」と告げた。「もし、友だちが米沢弁を使っているのを聞いたら、その友だちの首にこの罰札をさげよう。罰札をさげられた者は、終業式まで首にさげっぱなしにしておくこと。ただしほかの友だちが方言を使うのを聞いたら、そのときは『あ、聞いたぞ』といって、罰札をその友だちの首へうつしてよい」

井上ひさし(1981)『聖母の道化師』中央公論社

 

 学校現場では教師も上のような指導をしており、国家主導のもと方言矯正をしていたことが分かります。これも、とんでもない指導ですが、現代の文化水準から当時を批判することは易いわけで、当時の社会のありかたや当時の認識には、相応の制限があったでしょうから、これをもって当時の社会はけしからんとか、遅れているとかいったのでは、生産的ではありませんね。

 方言と共通語に関しては、批判的な意見だけでなく、「方言」も大事だという投書などは1960年代にははやくも登場するようです。

 

・『朝日新聞』(1966 3/1)

 「共通語話し方言も使う」

・『朝日新聞』(1984 6/23)

 「討論コーナー 方言と共通語 三 言語の二機能どちらも必要」

・『毎日新聞』(1996 11/16)

 「共通語+方言が話せる社会の柔軟さがほしい」

 

 一方で、方言に対するコンプレックスは、新聞記事から読み取るに1970年代頃まではかなり色濃く、1950年代の記事には次のようなものがある。

 

・『朝日新聞』(1957 5/28)

 「東京人よ、方言を笑うな」

・『東京新聞』(1957 7/21)

 「聞きづらい地方ナマリ」

 

 お互いに水掛け論のような記事が出ています。高度経済成長期の1960年代も同様に方言コンプレックスに関する記事は多いわけですが、特に年度替わりに方言関連の記事が増加する点は興味深いです。おそらくこの変わり目に地方から都市部へ人が流入し、方言が意思疎通の問題になるためでしょう。

 これらの議論は今の観点から見れば微笑ましいような気がしてきますが、当時は今とは全く異なる状況であったことが次の記事で知られます。

 

・『毎日新聞』(1964 5/13)

 「少年工員が同僚殺す 集団就職 方言笑われ、不仲」

・『読売新聞』(1965 8/27)

 「方言をからかわれ、兄の婚約者絞殺 カッとなった予備校生」

・『東京新聞』(1968 4/13)

 「はかなし「東京の夢」「脱走」相つぐ就職少年 方言ノイローゼから」

・『産経新聞』(1962 4/12)

 「方言から起こる劣等感」

・『毎日新聞』(1966 5/20)

 「「お国なまり」を笑わないで」

・『西日本新聞』(1972 1/16)

 「「方言が恥ずかしい」友達できず老夫婦自殺 八幡」

・『朝日新聞』(1977 6/1)

 「方言CMの笑いにひそむ地方人侮辱」

・『朝日新聞』(1996 1/31)

 「高校生「方言ばかにされた」熊本VS和歌山 寝込み遅い殴るける・・・スキー旅行、長野のホテル」

 

 このような記事を見ると、とうてい今の「月曜から夜更かしの方言コーナー」の方言をいじるような遊びの感覚で済ませてよいものではなかったことが分かります。かなり深刻だったようです。

 以上、甲子園の監督さんの方言から全然違う方向へ話が進んだ記事でした。

 

[参考文献]

・田中ゆかり(2011)『方言コスプレの時代』岩波書店

・森岡健二(1972)「現代の言語生活」佐藤喜代治編『文体史・言語生活史』(講座国語史6)大修館書店