適当日記

日常の瑣事を書いています。

折句でひまつぶし

みなさんご機嫌いかがでしょうか。今日も今日とて暇です。嘘です。ちょっと仕事が割り振られるようになってきました。ですが、調べたことがあるので、書きたいと思います。今日は「折句」について。

 みなさんは折句ってご存知でしょうか。今でいう縦読みに近い遊びといってよいかもしれません。折句の例は、古いところで『伊勢物語』に見られます。在原業平の和歌がそれです。在原業平が東へ向かう道中に、杜若が咲いていたのを見て詠んだ和歌一首。

 

から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ

唐衣  着つつ慣れにし 妻しあれば  はるばる来ぬる  旅をしぞ思ふ

 

 各句の頭を拾って読めば、「杜若」(かきつばた)が見えてくる仕掛けになっています。このように、文中のあるところを拾って読めば、言葉が現れるものを折句といいます。他にも、『古今和歌集』にも紀貫之が読んだ和歌に、

 

小倉山 峰立ちならし 鳴く鹿の へにけむ秋を 知る人ぞなき

 

とあります。この和歌には、何が折り込まれているかお分かりでしょうか。松尾芭蕉の弟子、其角の俳句には、

 

夕立や 田をみめぐりの 神ならば

 

これも折句になっています。しかも、この句の後ろには、「翌日雨降る」と書き添えられているので、なんかイイ感じです。江戸の大作家、滝沢馬琴は、「其角は実に俳諧(俳句)の聖なるものなり」と絶賛しています。現代でも、

 

よき宿と しる鶯が 軒の梅

よい月夜 しのばす恋の 軒づたい

 

 などと折句(上の場合、地名の吉野(よしの))が用いられることは普通にあるようです。他にも、折句で会話をすることもあったそうで。小野小町が人へ出した和歌、

 

言の葉も 常盤なるをば 頼まなむ 松を見よかし へては散るやは

訳:言葉も常緑であるのを頼りにしてほしい。松を御覧なさい。時を経て散りはしない。

 

返し、

 

言の葉は 常懐かしき 花折ると なべての人に 知らすなよゆめ

訳:あなたの言葉はいつも懐かしい花を折るように、出端を折ると人に決して知らせるな。

 

 一見、和歌のやり取りをしているように見えますが、実は小野小町は依頼文を出しています。句の先頭を拾っていくと、「ことたまへ(琴給へ)」「ことはなし(琴は無し)」となります。ようするに、琴貸してよ→いや、琴無いのよ みたいな。

 『千載和歌集』には、仁上法師の折句が見られる。

 

何となく ものぞ悲しき 秋風の 身にしむ夜半の 旅の寝覚めは

 

 これは僧侶らしい折句といえる(なもあみだ(南無阿弥陀))。明和九年(1772)には、本居宣長は中年の婦人に茶を送り

 

契りあれや 山路分け来て 過ぎがての 木の下陰に しばし会ひしも

 

 この折句はその場にふさわしい言葉が添えられている(ちやすこし(茶少し))。このように、古来より歌に言葉を織り込むことがしばしば行われてきました。他にも、江戸中期の似雲という僧の『年並草』という歌集には、

 

欄に寄れば 流水のみか 瑠璃の池の 蓮花の光 楼に輝く

 

 これも折句の変種と見ても良いでしょう。以前どこかで、「結婚式に折句を使ってもオシャレだろう」とか書いてる文を見ました。タクヤさんとメグミさんの場合。

 

鶴(たづ)が音を 雲に秘めてや 山眠る 目もはるに国 原潔(きよ)き深雪かな

たずがねをくもにひめてややまねむる めもはるにくにはらきよきふかゆきかな

 

 こんなん気付く人おるかいなwww

[参考]

桑原茂夫(1982)『ことば遊び百科』筑摩書房