適当日記

日常の瑣事を書いています。

回文でひまつぶし

みなさんこんにちは。新年度がスタートして一週間が経ちましたが、とくにやることがありません。なので、回文について調べてみました。ひまなので。

 

草の名は知らず珍し花の咲く

長き世のとおの眠りの皆ねざめ波乗り船の音の良きかな

弱虫のタモリが信濃での梨狩りも楽しむわよ

世界を崩したいなら泣いた雫を活かせ

私マキコ、屁こきましたわ

ロリコン外科医いい加減懲りろ

軽い機敏な子猫何匹いるか

 

 かつて、フジテレビに「タモリのジャポニカロゴス」という日本語の取り扱う番組があり、その中で回文がよく登場しています(ユーチューブでもまだいくつかの映像が見られる)。結構面白い番組なのでぜひ見てみてください。

 以下は、土屋耕一(1986)『軽い機敏な仔猫何匹いるか』などから回文の作り方についての説明を抜粋したものです。ちょっと長いですが引用します。

*回文のつくり方

 さて、この回文。片カナで書いて、上下が正確にひっくり返ることが条件だから、当然、それを作るときには、まずカナで、なにか書いてみることが出発点となるわけで。

 たとえば、いま「品」という言葉をひょいと思いついたとしましょうか。これは、べつに「品」でなくても、山でも川でもなんでもいいんだが、とりあえず、品をひとつ爼《まないた》にのせることにした。さあ、片カナで書いてみると、

  シナ

 であり、これを下から読むと、

  ナシ

 となる。そこで、この二つを接着させたいのですが、この場合、なにか助詞がひとつ必要となる。それは「言葉の糊」であり、回文つくりにおいては、この糊をわりと多用するから、よく覚えておきましょう。さあ、ここで糊として「は」を使ってみると、

  シナはナシ

になるでしょう。漢字を当ててみると「品は無し」ですか。あるいは、この上と下を入れ替えてもまた回文であり、

  ナシのシナ

 という風になって、こうなると「梨の品」かしら。糊として働いているのは、「の」の一字ですね。こうして、ごく短い回文が一つ出来たわけです。はじめのうちは、ま、こんなあたりから作っていくことをおすすめしたい。

 よく、いきなり大物を狙って、なにか壮大な一作をものにしようなどという人がいますが、結局はくたびれはてて、空振りとなり、どうも私には向いていないなあ、で終ってしまう。ピアノだって、はじめからリストの弾ける人なんているわけがない。言葉遊びだって、また同じ。

 さて「品は無し」まで行ったならば、もう少し先まで足をのばしてみよう。で、どのへんを伸ばしていくかと言うと、二通りの方法がある。一つは、上と下へ語をつないで伸ばしていく。もう一つは、真ん中をふくらませていく。

 この両方法あるのですが、おすすめしたいのは、後者の、中をふくらませていく方の道ですね。これが、あくまでも本道であり、上と下へ伸ばしていくのは、むしろ迂回路であります。

 なぜかと言うと、回文は、はじめと終りをキチンとまとめるのが難しいのであって、そこの部分が、すでに「品」と「無し」、という風に完成しているものを、むざむざこわしてしまうのは勿体ないのですね。ですから、「品」と「無し」はそのままにして、真ん中の糊のところを工夫していく。早い話、ハンバーガーをこしらえるのと同じかな。上と下のパンは、すでにある。あとは、中にはさむものをどうするか、ですね。その要領で、

  シナハナシ  品は無し

 の発展形として考えられるのは、

  シナモノモナシ  品物も無し

  シナモエモナシ  品も絵も無し

 などでありましょう。どちらも、カナをたどって正しく逆に返っていくところを確認してね。とくに、この場合は引き伸ばし用の糊として「も」の一字が働いています。そこにご注目。

 さて、これ以上に語をふくらませていくときですが。こうなると、いつまでも「品」の一字にこだわっていると発展しないから、軽いフットワークで、品そのもののお色直しを考えることがたいせつである。そこで、品に一字を加えて「品川」にしてみる。と、

  品川に、庭がなし《シナガワニニワガナシ》

 などと出来る。む、うまく行きそうでしょう、これは。でもね、誤解のないように書いておきますが、すべてがこうすらすらと、淀みない川の流れのようにことが進行すると思ったら間違いである。いや、絶対にそううまくは行かないから。

 一つの言葉を付け加えてみる。あれ、うまくいかない。で、また次の語をひっぱり出す。あ、これも駄目。で、また、なにかを探してくる。すべては、こういう努力の汗がダムとなって、そこに成立するもの、と思いましょう。

それと、その日のツキのようなものも、確かにあるなあ。ひょいと、うまい言葉と、出あって、みるみる愉快な一作が生まれてしまう日もありますが。いくら頭のなかを絞るキカイにかけて、それ出ろそれ出せ、とハンドルを力まかせに廻しても、出てこない日はまったく出てこない。

 そういう遊びなのですぞ、回文は。というわけで、ある日うまく、

  シナガワニニワガナシ  品川に、庭がなし

 まで行くことができた、として。さあ、この一行をよく見ると、全部で十音になっているのですが、それが都合よく上が五、下が五、である。ということは、この中央になにか七になる語を挟んでやると、ほら、五七五になるはずですね。つまり、俳句や川柳の、あの形になる。つまり、「品川に、なにがなにして、庭がなし」という、この真ん中の「なにがなにして」を作ればいいわけだ。

 当然ですが、この中の七は、それ自身が回文になっていることが条件ですよ。なぜなら、五七五の上下が回文ということは、その中央となる折り返し点は七の真ん中ですから。

 さて、古くから、七音だけの回文というものがある。

  ニカイハイカニ   二階は、如何に

  タシカニカシタ   確かに、貸した

  ダンナガナンダ   旦那がなんだ

 と、いったもの、これらは川柳の回文題として昔の記録に出てくる作例です。

 で、いまあげた三つの七音の回文ですが、こういうものを一つ作って「品川に、庭がなし」の中心に挟むと、さあ、それで句が一つ生まれるわけで。ま、安直に考えて「品川に、二階は如何に、庭がなし」でもいいんだが。確かに、これでちゃんとひっくり返っているわけですが。でもね、完成度というものが、イマイチだろう。ここは、もう一絞り、頭を絞ってみたい。こうして、私の古い作品の一つ、

  シナガワニ イマスムスマイ ニワガナシ

  品川に   いま棲む住い  庭がなし

 が出来たのであります。一方、品を、品川にするより、もっと、ドラマティックに変えてみたい。たとえば「しない」にしてしまうと、どうなるか。

  シナイデイナシ   竹刀で、いなし

 などは、どうでしょうか。ま、悪くはありませんがね。ただ、いかにも、すぐ出来ましたといった印象がぬぐえない。お湯を注いで、はい、お待ちどおさま、という即席めん風でしょう。こういう語感のものって、よくあるんだが。

  タマチノチマタ   田町の巷

  マカオノオカマ   マカオのおカマ

  キネマノマネキ   キネマの招き

 とかね。一杯やりながら、機嫌よくひょいと囗から出てくる式の、回文ですが。ま、これはこれで、一つの作品ではありますが、いま、より高い峰を目ざしておられる人たちには、これではやや低い山すぎるから、せめて、

  シナイガフルエルフガイナシ

  竹刀がふるえる、腑甲斐なし

 あたりまで登りたい。この場合は、五七五にはなりにくいので、というのは、「しない」という語の体質から決まってしまうのだが、従って、十三音の散文になっているわけですね。

 ついで、と書くのもへんですが、もう一例出してみたい。というのも、回文つくりというのは、はじめ「品」という一文字だったのに、ふらりと品川あたりへ迷いこんたかと思うと、しないを振りまわす方へ進んだりする。そのへんの呼吸を掴んでいただきたいからなのです。

 さて、このたびの移り気は「品川」が、なんと「信濃」になる、というケースです。

で、はじめの方でやった通り、カナで書いてみる。

  シナノ

 は、反対から読むと、うまい具合に、

  ノナシ

 となる。こうなると糊はいりませんね。二つは即座に付くようになっているから。

すなわち、

  シナノノナシ  信濃の梨

 だ。で、このへんで、すぐ満足してエンピツを置いてしまわないように。もう一歩、この路を参りますと、

  シナノジノナシ  信濃路の梨

 が迎えてくれる。たった一字増えただけなのに、この「路」が入ったために、なんとなく語の姿に風格が出てきたような気がするでしょう。

 とにかく、

  この子猫の子

 みたいに、耳で聞いただけでも、あ、なにか上下同文らしいな、とわかってしまうような、そんなレベルを早く脱出すること、であります。

 さあ、この信濃路だが。この先、五七五の型へ入っていけるかどうか、ですね問題は。でもね、この言葉は、よく見るとちょっと難しいカタチをしていて。かりに、上を、

  信濃路よ

 とすれば、下の語は、四時の梨

 となる。また、

  信濃路か

 となれば、こんどは、火事の無しだろうか。なにか、中に語を入れて、上と下を結びつける作業にやや手こずりそうである。とにかく、無意味な文を作っても仕方がないのであって、あくまでも、一句の意味というものが、焼き鳥の串のように全体を貫いていないとね。とくに回文というものは、その仕上りの、欠点のないまとまりが、ま、イノチと言ってもいいくらいなのですから。

 ひっくり返ることは返っているが、なんだか意味の通じない一文だなあ、などという回文は、これはもう掃いて捨てるほどあるのです。ま、よくない出来の例文をあげることもないとは思うけれど、これも念のためで。

  ハナノチリ リチノナハ  花の散り……理知の名は

 というような、下の五がすっかり無理をしている場合とか。

  カナモジヤ  ヤジモナカ  仮名文字や……弥次最中

 こんな具合に、なんだかワケのわからん文意でひっくり返っているとか。こんなあたりから先へ進んでも、あまり上首尾は期待できないから、早々と、弥次最中のたぐいは屑カゴへ捨てておしまいなさい。

 世の中には、もっと素晴らしい単語が、いっぱいあるはずだ。それらは、ひっそりと発掘の日を待っている黄金の像のように、声も出さずに言葉の土の中ふかく眠っているような気がする。

 だから、根気よく。あとは、紙とエンピツさえあれば、もうだれにでもつくれる回文の遊びなのであります。では、お別れに近作を一つ。これは漢字ばかりで作った一句です。

  キンカクジ キジンコンジキ ジクカンキ

  金閣寺   貴人金色    字句歓喜            (引用終わり)

 

どうやら回文は、一気に作るのではなく一部からちょっとずつ作るのがコツのようです。自分は一つも考え付きませんでした。他のひとにこのことを話すと、「那覇に咲く草に花」とか言ってて、センスがある人はすぐにできるのだなと思いました。良い回文が出来たら教えてください。

 

[参考]

桑原茂夫(1982)『ことば遊び百科』筑摩書房

ことばの会(1981)『ことばあそびカタログ』現代出版

土屋耕一(1986)『軽い機敏な仔猫何匹いるか』角川文庫